サマルカンドを求めてインドを攻略 ムガール帝国の誕生

サマルカンドを求めてインドを攻略 ムガール帝国の誕生

中央アジアを支配したティムール帝国はサマルカンドに都を置いた。ティムール朝はモンゴル帝国の継承国だが、イスラムの国だった。

ティムールの子孫であるバーブルは、サマルカンドから逃げてアフガニスタンのカーブルに拠点を置いていた。バーブルはティムール帝国再興を志し何度もサマルカンドを攻撃したが、結局失敗に終わった。

インド遠征

そこでバーブルは逆方向であるインドの攻略を考えるようになった。

バーブルは新型兵器「大砲」を持ってインドに侵入、北インドを支配していたロディー朝の大軍を撃ち破った。そのままロディー朝の都デリーとアーグラを占領し、帝国の都を置いた。

ここにムガール帝国が誕生した。意味はモンゴル人の帝国という意味で、バーブル自身はティムール帝国と名乗った。

まもなくバーブルが病に倒れると息子のフマーユーンが後を継ぐが、たちまち反乱が起こった。フマーユーンは反乱を抑えられず、インドを追われて友好国のサファヴィー朝に逃れたのだった。

イランを支配していたサファヴィー朝は、フマーユーンに対してイスラム教シーア派を国教にすること、インドを奪還したらアフガニスタンをサファヴィー朝に譲渡することを条件に軍を提供した。

フマーユーンはサファヴィー朝の力を借りてカンダハール、カーブルを奪還、そしてインドのスール朝の混乱に乗じて侵攻しデリーの占領に成功する。

こうして十五年ぶりにムガール帝国は再興された。ちなみにサファヴィー朝との約束は実行されず、ムガール帝国はスンニ派の帝国となった。

フマーユーンの急死とアクバル帝

帝国再興の翌年、フマーユーンは不慮の事故で急死した。礼拝のために階段を急いで降りようとしたところ、転落してしまったのである。

息子のアクバルは十三歳だった。ふたたび帝国内では反乱が起きた。

アーグラもデリーも失いアフガニスタンへの撤退も考えられたが、宰相バイラム・ハーンが徹底抗戦を唱えた。ムガール帝国軍はパーニーパットで辛うじて勝利し、帝都を取り戻した。

アクバルは民衆の多くが信仰していたヒンドゥー教に寛容な姿勢を取った。ヒンドゥー教徒の娘と政略結婚し、ヒンドゥー教徒に課せられていた巡礼税を廃止、さらに牛の屠殺禁止、人頭税の廃止を実施した。

アクバルの政策は民衆の心をつかみ、反乱が激減。ムガール帝国は初めて安定した帝国になることができた。国内を安定させたアクバルは領土拡大に乗り出し、まもなく黄金時代を迎えることになる。

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