コンスタンティノープル陥落 千年帝国ビザンティンの最期

コンスタンティノープル陥落 千年帝国ビザンティンの最期

東地中海に千年以上君臨してきたビザンツ帝国は、オスマン帝国の度重なる攻撃を受けて衰退し、首都コンスタンティノープルとその周囲を支配するだけになっていた。

東ローマ帝国とビザンツ帝国

ローマ皇帝コンスタンティヌス一世は、帝国の首都を東にある都市ビザンチウムに移し、「コンスタンティノープル」と改称した。

コンスタンティノープルはヨーロッパとアジアの境界にあり、周辺を海に囲まれていた。ローマ帝国の中心はコンスタンティノープルに移り、軍人や貴族は揃ってローマからコンスタンティノープルに引っ越した。

こうして抜け殻となった西ローマ帝国はやがて滅んだが、東ローマ帝国は千年以上も続いた。

東ローマ帝国は自らのことをずっと「ローマ帝国」であると言っていたのだが、文化はローマよりもギリシア風になり、言葉もラテン語からギリシャ語に変わっていった。

このためローマ帝国と東ローマ帝国は別の国と見なされ、西ヨーロッパでは「ギリシア帝国」とは「コンスタンティノープルの帝国」などと呼ばれた。世界史では「ビザンツ帝国」とか「ビザンティン帝国」とも呼ばれている。

イスラム帝国との戦い

ビザンツ帝国は同じキリスト教でありながら、ローマ・カトリック教会とはあまり仲がよくなかった。西のヨーロッパ諸国はカトリック教会が主流だったから、ビザンツ帝国はキリスト教国でも独特の存在だった。

ビザンツ帝国はその立地上、モンゴル帝国やイスラム帝国との戦いで最前線になった。イスラム帝国の攻勢に困ったビザンツ帝国は、カトリック教会に援助を求めた。

こうして十字軍が始まったのだが、十字軍に参加した各国の思惑は一致しておらず、特に第四回十字軍はヴェネツィアの意向により同じキリスト教国であるビザンツ帝国に向かい、コンスタンティノープルを占領してしまった。

ビザンツ帝国は首都を取り戻したが、もはや大帝国を支配する力は失われていた。

難攻不落の帝都

たびたび攻撃を受けたコンスタンティノープルは、街全体が城壁で囲われていた。それも半端な城壁ではなかった。

都市は海に囲まれていて、陸地が続く西側には巨大な城壁があった。まず深さ十メートルの水堀があり、その先に一つ目の高さ二メートルの城壁がある。その城壁を越えると、高さ十メートルの城壁があった。

城壁はまっすぐではなく、胸壁と呼ばれる突き出した部分があり、城壁を上ろうとしているそこから攻撃を受けることになる。それを突破したとしても、その次には高さ十五メートルの城壁が待ち構えていた。

メフメト二世の総攻撃

オスマン帝国のメフメト二世は二十万ともいわれる大軍でコンスタンティノープルを包囲し、海は軍艦で埋め尽くした。そして巨大な新型大砲「ウルバン砲」を投入して毎日砲撃を行った。

さらに陸地に木材を敷き詰め、油を塗って軍艦に丘を越えさせた。巨大な鎖によって封鎖されていた金角湾に70隻の軍艦が侵入した。

四方八方から攻撃され、ビザンツ帝国軍は城壁の修復が間に合わなくなった。

ついに聖ロマノス門が突破され、オスマン帝国軍がなだれ込んだ。城内で指揮を執っていた最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世は剣を抜き、オスマン帝国軍に向かって斬り込んでいった。

1453年5月29日、ビザンツ帝国は滅亡した。 西側諸国でコンスタンティノープルに援軍を送ったのは、ヴェネツィアとジェノヴァだけだった。

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