ヴァンデミエールの将軍 英雄ナポレオンの台頭

ヴァンデミエールの将軍 英雄ナポレオンの台頭

ナポレオンはコルシカ島の生まれである。コルシカ島はフランスの領土だが、当時はフランスの領土になってから間もなかった。

コルシカ島はジェノヴァに支配されていたが、独立戦争を戦って勝利を収めたところでフランスに売却され、独立は潰えた。

父親のカルロ・マリア・ブオナパルテは独立戦争に加わった闘志だったが、フランスに接近して貴族の地位を得てナポレオンをパリに留学させた。

砲兵隊長に抜擢

ナポレオンはパリの士官学校を卒業し、少尉になった。父カルロが卒業の翌年に亡くなり、ナポレオンは母親と六人の弟妹を養わなければならなかった。

ナポレオンは文学少年だったので、文才があった。当時フランスではフランス革命が勃発しており、ロベスピエールが権力を握っていた。そこでナポレオンはロベスピエールを絶賛する本を書いて権力におもねることにした。

それは効果があった。少佐になった24歳のナポレオンは大抜擢され、トゥーロン要塞攻略の砲兵隊長の任務が与えられたのである。

ナポレオンはまず丘を占領して岬を確保し、トゥーロン港に砲弾の雨を降らせればよいと進言した。しかし司令官であるカルトー将軍はナポレオンの話には耳を貸さなかった。やがてカルトーは攻撃失敗の責任で更迭された。

後任のディゴミエ将軍はナポレオンの作戦を高く評価した。ナポレオンを大佐に任命し、作戦の指揮を任せたのである。ナポレオンは約一か月でトゥーロン要塞の攻略に成功した。

こうして名を上げたナポレオンはロベスピエールの弟とも仲良くなり、一気に少将まで昇進した。

暗転

少将になってから半年後、テルミドールの政変が起こった。

ロベスピエールは処刑され、弟も断頭台へ送られた。ロベスピエールと深い関係にあったナポレオンも逮捕された。しかし運良くパリから離れた南フランスにいたため、十日ほどで釈放された。

ナポレオンには歩兵隊司令官としての任務が与えられた。ナポレオンは砲兵科出身でトゥーロン要塞攻略という実績もあったため、怒ってこれを拒否した。軍令に背いた罰で、ナポレオンは予備役に回された。

若くして少将にまでなったナポレオンは、あっという間に自殺を考えるほどまでに落ちぶれていった。

ヴァンデミエールの将軍

パリは混乱のまっただ中にあった。新政府への市民の失望は怒りへと変わり、王政のほうがマシだったと言われるようになった。

王党派の台頭に危機感を覚えた政府は、強引に「三分の二法」を可決した。三分の二法は王党派がどれだけ選挙で票を集めようとも、絶対に与党になれない仕組みである。

ついに王党派が反乱を起こした。兵力は2万5000人。この反乱は「ヴァンデミエールの反乱」と呼ばれる。

当時フランスはヨーロッパ諸国と戦争中だったため、パリには5000人しか国軍がいなかった。反乱鎮圧の総司令官となったバラス子爵は、五倍もの兵力差に作戦が思い浮かばなかった。

そこで、偶然頼ってきていたナポレオンに任せることにした。

ナポレオンはパリのど真ん中で大砲をぶっ放し、反乱を二時間あまりで鎮圧してしまった。パリ市民はナポレオンを「ヴァンデミエールの将軍」と呼び、絶賛した。

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