血の日曜日事件 皇帝ニコライ二世は民衆の敵になった 

血の日曜日事件 皇帝ニコライ二世は民衆の敵になった 

1905年1月1日、難攻不落と謳われた旅順要塞が陥落した。極東の小さな島国でしかない「猿」の日本に敗北を続け、ロシア国内では不満が高まっていた。

猿に連戦連敗のロシア帝国

ロシア皇帝ニコライ二世は日本人のことを「猿」と呼んでいた。ロシアと日本の経済力には八倍も差があり、兵力は十倍も差があった。

ヨーロッパの大国ロシアが、東の果ての島国に負けるはずがない。誰もがそう思っていた。総司令官クロパトキンは日本との戦争について「ピクニックに行くようなものだ」と豪語していた。

さらにロシア太平洋艦隊の本拠地旅順は要塞化されており、その規模は世界最大だった。

しかし、予想に反してロシア軍は日本軍に連戦連敗を喫していた。そして最大の拠点、旅順要塞が陥落。戦争のために苦しくなる生活と、帝国軍の不甲斐なさに国民の不満はどんどん高まっていった。

皇帝陛下万歳

しかし、ロシア国民はニコライ二世のことを敬愛していた。

労働者は苦しい生活をしていたが、それは役人や雇い主のせいで、皇帝に窮状を訴えれば生活が改善されると考えていた。そこで人々は事前に警察にデモの実施を届け出て、休日である日曜日に集まり、平和的なデモを始めた。

労働者たちは皇帝の肖像を掲げ、国家を口ずさみながら宮殿へ向かった。ペテルブルクを練り歩いた一行は、エルミタージュ宮殿に到着した。慈悲深い皇帝が姿を現し、温かい言葉をかけてくれると信じていた。

広場に待っていたのは軍隊だった。労働者たちからは怒りの声が上がった。

「撃てるものなら撃ってみろ」

国軍は民衆に向かって一斉に発砲した。広場は阿鼻叫喚となり、真っ赤な血に染まった。死傷者の数は数千人といわれている。

ロシア第一革命

一週間後、ニコライ二世は声明を発表した。

「余は労働者たちの反抗を赦す」

このふざけた声明により、皇帝は完全に人民の敵になった。各地でテロが起こり、皇帝の叔父であるセルゲイ大公が爆殺される事件も起きた。「ソヴィエト」が結成されたのもこの頃である。

極東からはロシア軍の敗戦が伝わった。奉天会戦で日本軍に奉天を占領され、頼みの綱のバルチック艦隊は日本海海戦で壊滅した。

モスクワから始まったストライキは各地に広がり、首都ペテルブルクにも波及した。混乱を収拾するべくヴィッテはニコライ二世を説得し、国会を他国と同様に「議決機関」とする十月宣言が発布された。

このときニコライ二世は悔しくて仕方がなかったという。その後も混乱は続いた。この一連の事件をロシア第一革命という。

三百年続いたロマノフ王朝が滅亡するまで、残り十二年。

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