皇帝ナポレオン イギリス首相ウィリアム・ピットの対仏大同盟

皇帝ナポレオン イギリス首相ウィリアム・ピットの対仏大同盟

ナポレオンは第二次イタリア遠征でオーストリア軍を破り、第二回対仏大同盟を崩壊させた。さらに対仏大同盟を主導したイギリス首相ウィリアム・ピットが失脚してアディントン内閣になると、イギリスはフランスに歩み寄った。

こうしてアミアンの和約が結ばれた。その内容はフランスに有利なもので、宿敵イギリスを屈服させたナポレオンにフランス国民は熱狂した。

皇帝ナポレオン

そして1804年12月2日、ノートルダム大聖堂でナポレオンの戴冠式が行われた。戴冠式にはローマ教皇ピウス七世がやってきたのだが、ナポレオンは冠を教皇の手によらず、自分で被った。

ナポレオンは「皇帝」になったが、皇帝といっても独裁者というわけではなかった。あくまで共和制は維持されていた。

しかしナポレオンが皇帝を名乗ったことで、ヨーロッパ諸国は強く反発した。イギリスとロシアがフランスに対する軍事同盟を結んだ。

オーストリアのフランツ二世はそれまでオーストリア大公と名乗っていたが、ナポレオンに対抗してオーストリア皇帝を名乗るようになり、フランスの条約違反を口実に英露同盟に加わった。

第三回対仏大同盟

イギリスではピットが再び首相に就任し、イギリス・ロシア・オーストリアによる第三回対仏大同盟が結成された。

ナポレオンは宿敵イギリスを倒すためイギリス本土上陸作戦を計画し、ドーヴァー海峡に大軍を終結させた。イギリスもドーヴァー海峡に軍艦を並べて対峙する。海軍力ではイギリスが上回っていた。

ナポレオンはイギリス侵攻の機会をうかがっていたが、好機をつかめないうちにオーストリアが動き出してしまった。総勢十八万の大軍で進軍してきた。

ナポレオンは軍を転進させてウルムの戦いで敵の退路を分断し、オーストリア軍に大勝した。しかし、翌日にフランス・スペイン連合艦隊がトラファルガー沖の海戦で壊滅してしまった。イギリス上陸の可能性はなくなった。

ナポレオンは、一気にオーストリアの首都ウィーンを占領することを決意した。ナポレオンが支持される理由は、戦争に勝利を続けているからに他ならない。海軍が壊滅した以上、どこかで大勝利を挙げなければならなかった。

帝都に迫るフランス軍を見て、オーストリア皇帝フランツ一世は逃げだし、ウィーンはあっけなく陥落した。

三帝会戦

帝都から逃げ出したフランツ一世は、イタリア方面軍と合流して帝都奪還のために戻ってきた。そしてオーストリアを援護するため、アレクサンドル一世が率いるロシア帝国軍も到着した。

挟撃される形となったナポレオンはウィーンから逃げ出し、アウステルリッツ村に布陣する。ここに三人の皇帝が相まみえることになったのである。

ナポレオンは敗走するふりをして敵を凍り付いた湖に誘い込み、湖に砲撃を加えて大軍を溺死させたのだった。

三帝会戦はナポレオンの大勝に終わり、第三回対仏大同盟は崩壊した。まもなくイギリスのピットが病に倒れ、再びナポレオンの支配は盤石になった。

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