アウシュビッツ強制収容所 ホロコースト最大の地

アウシュビッツ強制収容所 ホロコースト最大の地

ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の地として名高いアウシュビッツ強制収容所は、ポーランド第二の都市クラクフから五十キロメートルほどのところにある。

ヒトラーはユダヤ人を目の敵にしていたが、ポーランドにはユダヤ人が多く住んでいた。そこで各地に強制収容所を建設して、強制労働させることを思いついた。

アウシュビッツ強制収容所

アウシュビッツは各地の強制収容所の中でも犠牲者が最も多い強制収容所で、1940年に建設された。ユダヤ人だけでなく、政治犯、ソ連軍捕虜、同性愛者などが収容された。

ポーランドをはじめヨーロッパ各地から送られていたユダヤ人たちは、最初に「労働者」「人体実験用」「価値なし」に分けられた。たとえば女性、子供、老人のの大部分は「価値なし」とされた。

「労働者」は文字通り強制労働させられた。食事も満足に与えれず、労働は過酷で住環境も最悪だったため、「労働者」はどんどん死んでいった。アウシュビッツの冬はマイナス20度になることもあるが、薄い穴だらけの毛布くらいしか与えられなかった。

「人体実験用」は人体実験の材料にされた。たとえばヒトラーの理想とする「アーリア人」は青い目を特徴としていたので、目を青くするための人体実験が行われたりしていた。

「価値なし」は価値がないので、ガス室に詰め込まれて毒ガスで殺された。ヒトラーはユダヤ人を劣った人種であると見なし、絶滅させなければならないと考えていた。

アンネ・フランクとアウシュビッツ

アウシュビッツには二つ目、三つ目の強制収容所も建設された。それぞれビルケナウ強制収容所、モノヴィッツ強制収容所と名付けられ、ビルケナウには主に女性が収容され、モノヴィッツはドイツの有力企業の工場が建てられた。

「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクはビルケナウ強制収容所に収容されていた。アンネ一家はオランダに隠れていたが、1944年8月にナチス親衛隊に見つかって逮捕された。

翌月にアンネ一家はアウシュビッツへ送られ、父親オットーはスシュヴィッツ強制収容所へ、アンネと母、姉はビルケナウ強制収容所に入れられた。後にアンネと姉のマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移された。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所では伝染病が蔓延していた。アンネとマルゴーはチフスに感染して死んだ。その一か月後、 ベルゲン・ベルゼン強制収容所はイギリス軍に解放された。

戦争終結から二年後、アウシュビッツは博物館として開館した。ガス室や死体焼却炉、絞首台や猛毒ガスが入っていた空き缶などを見ることができる。

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