街亭の戦い 漢中と長安の間にそびえる秦嶺山脈

街亭の戦い 漢中と長安の間にそびえる秦嶺山脈

漢中と長安の間には秦嶺山脈がある。諸葛亮は何度も北伐を行ったが、この秦嶺山脈をどうやって通るかが問題だった。

秦嶺山脈を抜ける道は、東から順番に子午道(しごどう)、駱谷道(らくこくどう)、褒斜道(ほうやどう)、故道(こどう)、関山道(かんざんどう)がある。

子午道の先には長安、褒斜道の先には五丈原、故道の先には陳倉、関山道の先には天水がある。いずれも北伐で戦場となった場所である。

街亭の戦い

第一次北伐では、まず魏延が最も東側の子午道を通る作戦を主張した。険しい道だが長安への最短ルートだった。魏延が精兵を率いて長安を襲撃し、その後やってくる本軍と合流するという作戦である。

諸葛亮は魏延の作戦を採用せず、長安からは一番遠い関山道を通って天水郡を占領することにした。関山道は比較的平坦で、大軍の移動にも適していた。

同時に、趙雲と鄧芝を陽動部隊として褒斜道から進出させた。褒斜道の先には五丈原があり、その先には郿がある。魏の曹真は郿に軍を集結させてこれに備えた。この間に諸葛亮の本軍は天水郡・安南郡・安定郡を占領することができた。

この様子を見た魏の明帝(曹叡)は自ら長安に出陣し、曹真にはそのまま趙雲・鄧芝と対峙させ、諸葛亮に対しては歴戦の張郃を派遣した。

諸葛亮は馬謖に天水の東にある街亭で張郃を迎え撃たせた。諸葛亮は街道を守るように命じたのだが、大勝利を目論んだ馬謖は山上に布陣してしまった。これを見た張郃はまず水を断ち、馬謖を散々に撃ち破った。

張郃はさらに追撃しようとしたが、王平の軍が乱れていなかったため伏兵がいる可能性があると判断し、追撃しなかった。

諸葛亮は街亭を失ったことを知ると、天水郡の住民を拉致して蜀に引き上げた。こうして第一次北伐は失敗に終わった。

街亭の守りには魏延か呉懿を任命するのが妥当なところだったが、諸葛亮は馬謖を抜擢した。馬謖は荊州の出身で、当時諸葛亮が最も評価していた男だった。

諸葛亮の戦略

諸葛亮は天水郡を攻略した後、さらに西の隴西郡を攻略しようとしていた。街亭の戦いに敗れたことで挟撃される可能性を考え、撤退した。

長安とは反対方向を叩いておき、後顧の憂いを断ってから決戦に挑もうというわけである。

馬謖が街亭で張郃を防いでいれば、その間に本軍が隴西郡を攻略し、反転して張郃に全軍で当たることができる。そして曹真を破り長安に入城する。そういう計画だったのだろうか。

そう考えると、諸葛亮の考えた戦略はごく平凡なものにも思える。

諸葛亮は長安を占領する気がなかったのではないかという意見もあるし、諸葛亮の軍事的な才能は大したことなかったと考える人も多い。

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