マルクス・アウレリウス 五賢帝最後の皇帝

マルクス・アウレリウス 五賢帝最後の皇帝

ローマ五賢帝はネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの五人を指す。

五賢帝の五人目、マルクス・アウレリウスは名門の出身で、多くの家庭教師から最高の教育を受けた。幼少期にハドリアヌスに可愛がられ、将来皇帝になるようにとアントニヌス(アントニヌス・ピウス)の養子になった。

マルクスは広く学問を学んだが、最も好んだのは哲学だった。

皇帝マルクス・アウレリウスとルキウス

アントニヌスは問題なくマルクスが皇帝になれるよう対策を講じていたので、マルクスはスムーズに皇帝になることができた。

マルクスは自身が皇帝になると、義理の弟で九歳年下のルキウスも皇帝にした。その理由はハドリアヌスの意志を尊重したとも、政治的配慮とも言われる。

ローマの長年の宿敵、東方のパルティア王国がローマの保護国であるアルメニアを脅かしたため、マルクスはルキウス帝に遠征させた。

ローマ軍はパルディアの撃退に成功したが、このときに疫病を持ち帰ってローマは混乱に陥った。何の疫病かはわかっていないが、天然痘とかペストとか言われている。

マルコマンニ戦争

166年、ドナウ川を越えてゲルマン人がローマに侵入してきた。このときからマルクス・アウレリウス帝の長い戦いが始まった。

マルクス帝とルキウス帝はゲルマン人に備えるために北イタリアへ向かったが、ルキウス帝が若くして病没した。マルクスは葬儀を済ませて再び北へ向かった。

マルクスは現在のユーゴスラビアに拠点を構え、ゲルマン人と戦ったが形勢は不利だった。これを見たゲルマン系諸部族は一斉にローマ帝国に侵入を開始した。

マルコマンニ族やクァディ族がアルプス山脈を越えて北イタリアに侵入し、コストボキ族はバルカン半島に侵入してアテネに迫った。マルクスは拠点をウィーン近くに移して反撃を試みたが、歴戦の将軍を失った。さらにマウリ族がアフリカからイベリア半島に侵入した。

マルクスは部族と講和条約を結ぶことで敵の連携を断ち、苦闘の末に何とか体勢を立て直した。しかし部族は講和条約を平気で破るため、戦争が終わることはなかった。

175年、ようやくローマと諸部族の休戦が成立した。この間、マルクスはひたすら戦争に忙殺されたのである。ローマ市民は皇帝の勝利を称えた。

アウディウス・カッシウスの乱

この頃、東方ではシリア総督アウディウス・カッシウスが皇帝を名乗って反乱を起こしていた。カッシウスは東方のローマ軍を掌握していたから、巨大な勢力だった。

元老院はカッシウスを「国家の敵」と呼んだが、首都ローマはその巨大な軍事力に恐れおののいた。

しかし、カッシウスはカッパドキア総督マルティウス・ウェルスを味方につけることができなかった。カッシウスは三か月後に部下に殺され、反乱はマルクス帝の命令でマルティウス・ウェルスによって鎮圧された。

マルクスはその後、エジプトやギリシャを旅してローマの支配を安定させ、ドナウ川に戻ってゲルマン人に優勢に戦い、陣中に病没した。哲学好きの皇帝は哲学を考える暇はなく、戦争対応に大忙しの人生だった。

彼の後は息子のコンモドゥスが皇帝を継いだ。

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