魏の五大将軍の筆頭、張遼 劣勢の合肥の戦いで孫権を追い詰める

魏の五大将軍の筆頭、張遼 劣勢の合肥の戦いで孫権を追い詰める

張遼(ちょうりょう)、楽進(がくしん)、于禁(うきん)、張郃(ちょうこう)、徐晃(じょこう)の五人は、張楽于張徐伝としてひとつにまとめられている。

魏、呉、蜀の五大将軍

中国の歴史書は人物ごとに書かれていて、だいたい重要な人物順になっている。たとえば蜀の場合は関張馬黄趙伝という名前で関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲が並べられている。こちらの五人は三国志演義で「五虎大将軍」と称された。

蜀の五虎大将軍に対抗する形で、魏の五大将軍と呼ばれているのが上記の五人である。蜀の五虎大将軍も魏の五大将軍も、正式にそのような役職があったわけではないし、正史では特にそのように呼ばれているわけではない。

では呉には五人の優れた将軍がいないのかというと、これに当てはまりそうな列伝がない。そもそも後世で「五人のなんとか将軍」と呼ばれるために歴史書が書かれたわけではないから、別に呉に優秀な将軍がいなかったというわけではない。

「五大将軍」の他にも「四天王」とか「世界三大なんとか」とか、人間は数字にまとめるのが好きなのだ。

魏の五大将軍の他にも魏には優れた将軍は多い。夏侯淵や曹仁はまさに優れた将軍といえるが、曹操の親類なので別枠での扱いとなっている。五大将軍に劣っているわけではない。

張遼

張遼は五人の中でも筆頭に挙げられている。

最初は丁原の配下だったが、丁原が殺されたため董卓の配下になり、その董卓も殺されたため呂布の配下になり、その呂布が殺されたため曹操の配下になった。丁原、董卓、呂布、曹操と次々と主君を変えているように見えるが、張遼自身はただ流されていただけであり、別に自分の意思で主君を変えてはいないようだ。

張遼はいろいろなところで活躍しているが、特に袁紹との戦いやその残党討伐で大活躍している。白馬の戦いでは関羽とともに先鋒を務めた。

最も活躍したのが合肥の戦いで、張遼と李典、楽進が合肥城を守っていたところ、孫権が十万の大軍で攻めてきた。張遼と李典が攻撃を担当し、楽進が守りを担当することになった。

張遼は精鋭八百人を率いて孫権軍を襲撃し、このとき包囲された部下を救出するために何度も包囲を突破したという。孫権は結局撤退するが、このときも張遼は襲いかかり、もう少しで孫権を捕まえられるところだった。

そんな出来事もあったため、張遼は呉で最も恐れられていた。ほぼ完璧な将軍である上に、関羽の知り合いなのでとても人気がある。

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