三国同盟 アステカ王国を構成したテノチティトラン、テスココ、トラコパン

三国同盟 アステカ王国を構成したテノチティトラン、テスココ、トラコパン

スペインに侵略されるまで、現在のメキシコシティ周辺にはアステカ王国が存在した。アステカ王国は三つの都市による三国同盟で成り立っていた。

テノチティトランとテスココ

1325年にメシカ族はテスココ湖の島に新たな都市を建設し、テノチティトランと名付けた。さらに近くにある島に都市トラテロルコを建設した。

テスココ湖は現在のメキシコシティに存在する。今のテスココ湖は埋め立てられてしまってとても小さいが、かつては広い湖だった。

当時、メキシコ盆地ではアスカポツァルコとテスココが覇権を争っていた。テノチティトランはアスカポツァルコの属国として支配を拡大していき、テスココが敗れるとこれを監視する役割を負った。

しかしアスカポツァルコは暴政が続き、ついにテノチティトランやテスココを敵に回した。テスココ王ネサワルコヨトルはテスココの奪還に成功し、アスカポツァルコを114日間の包囲の末、陥落させた。

1428年、テノチティトラン、テスココ、トラコパンは三国同盟を結んだ。この三国同盟は後にアステカ王国とも呼ばれ、滅亡するまで続いた。

繁栄するアステカ王国

テノチティトランの王位を継いだモクテスマ一世は、周辺諸国を征服していった。彼らは定期的に神に生け贄を捧げなければならないと信じていた。そのために戦争は欠かせないものであり、たくさんの捕虜を得る必要があった。

三国同盟は周辺国に貢ぎ物を要求して繁栄した。

身分によって服装が分けられ、刑法が定められた。刑法は身分の高い者ほど厳しく処罰されるようになっていた。身分が高い者ほど、庶民の模範にならなければならないと考えられていたのである。

三国同盟は他国を征服しても税金や貢ぎ物を徴収するだけで、軍を駐留させることはなく、制度、伝統、文化、そして宗教にも口を出すことはなかった。しかし反乱を起こした都市には厳しい報復を行った。鎮圧後には重税を課し、首長を呼び出して家族を処刑する姿をじっくりと味わわせた。

一方で、王国のために軍を提供した都市の税金を免除したり、首長同士を政略結婚させたりして支配を強化していった。

三国同盟で最も強力だったのはテノチティトランだが、テスココも強い存在感を示していた。テスココ王ネサワルコヨトルは法を整備し、テノチティトランの軍事遠征にも参加した。

テノチティトランの人口は三十万人を超え、街はきれいに整備されていた。当時、世界でも人口が三十万人を超える都市はパリやイスタンブールくらいだった。しかも、テノチティトランはとても衛生的な都市だった。

そして街の中心には巨大な神殿があった。そこは生け贄の儀式が行われる場所だった。大量の生け贄が心臓をえぐり出される儀式が行われ、市民はそれを見て熱狂していた。

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